学園の沿革

  • 北海道協立自動車学校の校舎と車庫
    (昭和7年ころ)

  • 教習風景(昭和6、7年ころ)

  • 校舎正門(昭和26年)

  • 開校20周年記念式典(昭和27年)

  • 北海道工業大学 2号館増築

  • 北海道尚志学園高等学校 駒岡総合運動場

  • 全日本高等学校選抜ソフトテニス大会優勝(平成14年)

  • 北海道工業大学 入学式

1924 大正13年8月 伏木田隆作、自動車運転技能教授所設立
※当学園の創設
1936 昭和11年6月 各種学校に組織変更認可
1951 昭和26年5月 財団法人北海道自動車学校設立認可
1953 昭和28年1月 学校法人自動車学園に組織変更認可
設置校/北海道自動車短期大学 北海道自動車学校
昭和28年4月 北海道自動車短期大学開学
学科/自動車工業科
1956 昭和31年4月 北海道工業高等学校開校
課程/定時制 学科/自動車科
1957 昭和32年4月 北海道工業高等学校通常課程設置
課程/全日制 学科/自動車科 工業経営科
1963 昭和38年4月 北海道自動車短期大学学科増設
学科/自動車工業科(第二部)
1967 昭和42年4月 北海道工業大学開学
学部/工学部
学科/機械工学科、経営工学科
1968 昭和43年4月 北海道工業大学学科設置
学科/電気工学科
1972 昭和47年4月 北海道工業大学学科設置
学科/土木工学科、建築工学科
1973 昭和48年4月 北海道工業高等学校学科設置
学科/普通科
1974 昭和49年5月 北海道薬科大学開学
学部/薬学部
学科/薬学科、生物薬学科
1975 昭和50年4月 法人名称変更
学校法人自動車学園を学校法人北海道尚志学園へ
1978 昭和53年4月 北海道薬科大学大学院設置
研究科/薬学研究科
専攻/生物薬学専攻
課程/修士課程
1980 昭和55年4月 北海道薬科大学大学院課程増設
研究科/薬学研究科
専攻/生物薬学専攻
課程/博士課程(後期)
1985 昭和60年4月 北海道電波専門学校設置者変更
(昭和30年開校、昭和53年専修学校認可)
1986 昭和61年4月 北海道工業大学学科設置
学部/工学部
学科/応用電子工学科
1987 昭和62年4月 学校名称変更
北海道電波専門学校を北海道総合電子専門学校へ
1990 平成2年4月 北海道工業大学大学院設置
研究科/工学研究科
専攻/電気工学専攻、応用電子工学専攻、建築工学専攻
課程/修士課程
1992 平成4年4月 北海道工業大学大学院専攻および課程設置
研究科/工学研究科
専攻および課程
機械システム工学専攻/修士課程
土木工学専攻/修士課程
電気工学専攻/博士課程(後期)
応用電子工学専攻/博士課程(後期)
1994 平成6年4月 北海道工業大学大学院専攻および課程設置
研究科/工学研究科
専攻および課程
機械システム工学専攻/博士課程(後期)
建設工学専攻/博士課程
2000 平成12年4月 北海道薬科大学大学院専攻設置
研究科/薬学研究科
専攻/臨床薬学専攻
課程/修士課程
2001 平成13年4月 学校名称変更
北海道工業高等学校を北海道尚志学園高等学校へ
北海道工業大学設置学科改組
電気電子工学科
情報ネットワーク工学科
情報デザイン学科
福祉生体工学科
環境デザイン学科
機械システム工学科
社会基盤工学科
建築学科
2003 平成15年4月 北海道自動車短期大学専攻科設置
自動車工学専攻
車体工学専攻
2004 平成16年4月 北海道薬科大学学科設置
学科/医療薬学科(既存2学科を再編)
2006 平成18年4月 北海道薬科大学学科設置
学科/薬学科(6年制)
2008 平成20年4月 北海道工業大学学部学科再編
創生工学部
  学科/ 機械システム工学科
    情報フロンティア工学科
    電気デジタルシステム工学科
空間創造学部
  学科/ 建築学科
    都市環境学科
医療工学部
  学科/ 医療福祉工学科
未来デザイン学部
  学科/ メディアデザイン学科
    人間社会学科
2009 平成21年3月 北海道総合電子専門学校廃校
2010 平成22年4月 北海道薬科大学大学院設置
研究科/薬学研究科
専攻/薬科学専攻
課程/修士課程

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学園の歴史

第1章 北海道自動車学校時代

はじめに

学校法人北海道尚志学園は、大正13(1924)年8月10日に伏木田隆作が個人的に開設した自動車運転技能教授所を嚆矢としている。この教授所を基にして北海道自動車学校に発展、さらに自動車学校という特殊な教育分野であることからくるさまざまな制約や展開の過程を経て現在に至っている。

本学園が学校法人の体制をとったのは、昭和28(1953)年である。北海道でも有数の理工系総合学園に発展したのは、これ以降のことであって、それまでは自動車学校の時代であった。その期間は長く、学園の発展史からみれば、まさに揺籃期であったといえるほど明確に区分できるのである。

第1節 北海道最初の自動車学校

運転手免許證取得の方法

18世紀の後半、イギリスで始まった産業革命の所産である自動車が、我が国の道路を最初に走行したのは、明治31(1898)年のことである。その数年後、自動車は営業に用いられて急速に普及する。国産自動車の開発も始まり、自動車を対象にした規則も制定されて大正初年には完全に定着した。

明治初期から本格的な開拓が始まった北海道の道路を自動車が走ったのは、明治39(1906)というきわめて早い時期であった。ただ、これは特殊な例であったが、それでも大正3年(1914)年以降急激に増加しはじめるから、こと自動車に関して北海道は必ずしも後進地域ではなかったのである。

本学園の母胎をなした北海道自動車学校の始まりは、北海道において自動車が実用化され始めた時期とそれほどの隔りはない。こうした事実から、北海道における自動車の普及は、そのまま自動車学校の歴史の背景をなしていたし、自動車の進歩は、自動車学校の成長のきわめて重要な要素になっていたといえるのである。

大正10(1921)年1月11日付『北海タイムス』に「自動車は漸次年を逐ふて各地に増加したるため之に伴ふ其事故も亦尠なからず大正9年道庁は技手1名を宛専ら自動車の原動機其他技術に関する調査に従事せしめたり」という記事がある。これは、大正8(1919)年の内務省「自動車取締令」で自動車の具備しなければならない構造装置が明記され、さらに、定期または臨時に自動車の検査を行うことが定められたので、それに対処する要員でもあったが、この法令で義務づけられた運転手免許證の取得試験に、自動車の構造についての試験科目が加えられたので、その出題を担当する役割も果したと思われる。

当時、北海道における運転手免許の試験は、北海道庁警察部が所管となって札幌で実施されていた。しかし、専用の試験場施設がなかったので、運転についての実地の技能は、主に円山公園の道路が使用されたという。そして、試験に用いる自動車は、受験する者が持ってきた車両を使用していたといわれる。(中略)

当時、運転手免許證取得のための試験を受けようとする場合は、自動車を有している会社に運転助手として入社し、先輩運転手に手ほどきをうけながらの実地練習を経て受験するか、自家用車購入を条件に販売店の技術者に教習をうけてから受験、あるいは自動車学校を修了して受験というような方法があった。しかし、会社での技術習得は、自動車を使用し、助手を採用する会社でなければ実現不可能であったし、自家用車を購入するのも経済的に負担が大きいので一部の人に限られ、結局、自動車学校で学ぶことが確実な方法となるが、そうした学校は、東京と大阪にしかなかったのである。あとは、個人的に教えてくれる人を見つけるだけであった。

この頃、東京府下駒沢村にあった「帝国自動車学校」の生徒募集の内容をみると、本科は1カ年で卒業する課程で、毎年4月1日と10月1日の2回を新学期とする体制をとっている。入学の条件は、尋常小学校卒業程度で、なるべくは18歳前後としていた。速成科には3カ月卒業、2カ月卒業、1カ月卒業の3つの課程があって、それぞれ毎月1日が新学期の開始となっている。そのほかに1カ月卒業の学科専習速成科と術科専習速成科の課程があって、共に毎月1日が新学期開始となっていた。定員は明記されていないから、恐らく特に定めていなかったのであろう。

ただ、どちらにしても本州へ出向いて教習を受けなければならないということは、不便極まりないことで、当然のごとく自動車学校あるいは、運転技能を教授してくれる施設を北海道にも開設すべきであるとの要望が高まっていた。

北海道自動車学院の創設

大正10(1921)年4月1日、こうした施設が小樽に誕生した。「北海道自動車学院」と称しているが、規模・内容はともかくこれは北海道における最初の自動車学校ということになる。同年4月17日付『小樽新聞』に「開校した小樽自動車学校」という見出しで、次のような記事が掲載されている。

当区花園町河村正雄、函館本澤其他二・三の諸氏が奔走して去る一日から緑町四丁目に開校した小樽自動車学校は現在校生各科を通じて約二十余名に達し各地方からの入学申込も最近著しく殖えて来た、河村氏は語る「本校は四月一日から開校したが在学生は未だ少数である、水管自動車が近く到着するので小樽消防組からも六名の消防夫が入学した。世間からまだ認められぬ本校は只熱心と努力で凡ての信用を得たいと思ってゐる」

(中略)

北海道自動車学院は河村正雄がオーナーであって、実務は「モーター商会」の本澤得光が担当していたものであろうから、本澤の習得した運転技術法が活用されたことは容易に推測できる。しかし、本澤がその技能を自動車学校で学んだのか、あるいは運転手の助手をしながら習得したのか明らかでない。

教習期間については、大正11(1922)年11月5日付『北海タイムス』に掲載されている広告に「北海道庁甲種自動車運転手試験に合格し、各地に雄飛せる本院卒業者多数あり。僅か2カ月と最も低廉の学費にて、近来収入多き自動車界に活躍し成功せんとする士は先づ本院の規則書を申込まれよ」とあることから、2カ月の速成であったことがわかる。

北海道自動車学校札幌分校

大正13(1924)年8月21日付『北海タイムス』は、「授業料ノ要セズ(9月1日ヨリ)自動車学校夜間教授開始、北海道自動車学校」という広告を掲載している。所在地は、小樽市緑町であるから、この学校は北海道自動車学院の改称であることがわかる。夜間教習を始めることを契機に校名を変更したのであろうが、さらに、同年10月28日付『北海タイムス』の広告は、「雪国ニ活動セントスル人ハ来レ、雪中自動車運転法教授ハ本校ノミ、本道唯一自動車甲種運転手養成、札幌郡軽川ニモ練習場ノ設備アリ」と記している。そして、翌14(1925)年1月3日付の同紙の広告には、「1月5日ヨリ新学期開始、初学期生30名限リ」とあって、実際に教習を始めているのである。

この動きは、一見して学校の発展のようにもみえるが、その後の結果をみるとまったくの反対であったようである。いわば生徒を集めるための方策であったらしく、軽川(現在の札幌市手稲区)へ進出したのも運転手試験が行われる札幌に出るための足がかりであったと考えられる。小樽だけで生徒を確保することが難しかったのであろう。

大正14(1925)年4月、北海道自動車学校は、札幌分校を開設する。新聞広告によると、その所在地は、山鼻町西7丁目北1053とある。現在の住所表示でいうと中央区南13条西7丁目ということになる。そして、それ以来、小樽本校の生徒募集広告は確認できなくなるのである。大正15(1926)年6月末現在、小樽自動車運輸営業組合の組合員は19企業に及んでいるが、そのなかに「北海道自動車学校」はなく、代わって本澤得光を院主とする「本澤自動車学院」の名がある。しかし、本澤が経営していた「モーター商会」の名は確認できない。

以上のことから、北海道最初の自動車学校として大正10(1921)年4月、小樽に開校した北海道自動車学院は、同13(1924)年の夏、北海道自動車学校と改称して軽川へ進出した。そして、翌14(1925)年春、山鼻に札幌分校を開設したのち本校は閉鎖した。実技指導を担当していた本澤得光は、その後ほどなくして単独で「本澤自動車学院」を開設し、教習を行っていたと考えられるのである。

第2節 自動車運転技能教授所の開設

伏木田隆作と自動車

小樽の北海道自動車学校が山鼻に設置した札幌分校のすぐ北側、すなわち山鼻町1052番地に、伏木田隆作が個人で経営する「自動車運転技能教授所」があった。この施設が学校法人北海道尚志学園の起源になるのであるが、発祥となる開設の時期について伏木田本人が大正13(1924)年8月10日であったと述べている。北海道自動車学校札幌分校の開設が大正14(1925)年の春のことであったから、分校は明らかに伏木田の自動車運転技能教授所と関わりをもって設置されたと考えられる。そこでまず、伏木田隆作が自動車運転技能教授所を開設するに至った経過からみてみよう。(中略)

運転技能教授の開始

恐らく大正12(1923)年の9月頃から、個人的に自動車の運転技能を教えて欲しいという者が、伏木田のもとを訪れはじめていた。彼の存在は「札幌乗合自動車株式会社」の運輸部長という社会的地位だけではなく、「東京自動車学校」の本科を卒業し、東京で甲種の免許證を取得してきたという実力が裏付けになって、自動車関係者には広く知られた存在だったと思われる。免許證取得が試験制になっても、札幌にはまだ自動車学校はなかったから、恐らく人づてに希望者がやってきたものと思われる。そして、伏木田もそれを厭うことなく、熱心に指導したようである。

運転技能を教えるということは、製糖会社に勤務していた時、助手に対して行った経験があるはずである。当時、営業車の運転には必ず助手を同乗させていたし、その助手は、運転手免許證を取得することを目的に勤務していたのである。

とにかく、伏木田に個人的な教習を依頼する者は、あとを絶たなかったようである。一方、彼の本来の仕事は不振で、ついに大正13(1924)年の夏、乗合自動車を運休せざるをえなくなったのである。当然のごとく、収入のみちは途絶えてしまうことになる訳であるが、当面、それを自動車の運転技能の教習で確保しようとしたのであろう。具体的に「自動車運転技能教授所」という看板を掲げたのかどうかは明らかでないが、以後しばらくの間、これに全ての時間を費やしたことだけは確かである。場所は、山鼻町1052番地の自宅の6畳間であった。開始した8月10日は日曜日である。仕事の休日を利用して習いに来ていたという実態が、このことを通してもわかるのである。

教授所講師は、恐らく伏木田1人であった。したがって、教習生の数にも限界があったが、その具体的な人数は明らかでない。実地練習用の自動車は、乗合自動車をそのまま利用した可能性もある。教授内容や受講料については具体的にわからないが、東京自動車学校方式に、彼の体験を加えたものであったであろうことは容易に推測できる。

とにかく、大正13(1924)年8月10日の日曜日は、のちの北海道自動車学校、そして、北海道尚志学園の発祥の記念すべき日となったのである。

この日、第8期北海道議会議員の選挙が行われている。有権者は9万9,095名であった。

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